なり、艶麗で華々しく画面がとてもきれいに見えるのである。
右と左ほどの相異のある先生について学んだ私は、またそこに悩みが生まれて来た。
楳嶺先生の画風にしたがって描いているつもりでも、いつか松年先生の荒い癖が出てくるのである。柔かい派手な手法と、雄渾で渋い画風の二つがごっちゃになって、どうしても正しい絵にならない。落ちつきのない画ばかり出来上るのである。
楳嶺先生はそのような不純な絵を悦ばれる筈はない。よい顔は一度もされない。
「これではいけない」
私はあせって松年先生の画風をすてようとすればするほど画が混乱してくるのである。
一時は絶望の末、絵筆をすてようとさえした。自分にはまっとう[#「まっとう」に傍点]な絵をかく才能はないのではなかろうか、とさえ疑った。
が、ある日ふと考えた。
師に入って師を出でよ……と言われた松年先生のお言葉だった。
そうだ――と気づくとその日から私は強くなった。
松年先生の長所と楳嶺先生の長所をとり、それに自分のいい処を加えて工夫しよう。一派をあみ出そう。
そういう思いに到達した私は、あく日から生まれ変ってその道をひらいて行ったのである。
私は画をかくことが愉しみになった。両先生の長所に自分の長所と三つのものをプラスした画風――松園風の画を確立しだしたのはこのときからであった。
楳嶺先生は門下の人たちに対しては実に厳格であった。
姿勢ひとつくずすことも許されなかった。
「正姿のない処に正しい絵は生まれぬ」
これが先生の金言だった。
楳嶺先生の歿せられたのは明治二十八年の二月だった。
師縁まことにうすく入塾後二年目で永のお別れをしなければならなかった訳であるが、私にとっては巨大な光りを失った思いだった。
私の二十一歳の春であった、先生にお訣れをしたのは……
しかし、その頃には、私も自分の画風をちゃんと身につけていたので精神的にはひどい動揺は来たさなかった。
ただ、これから自分のまっとう[#「まっとう」に傍点]な絵を見て貰えるという時にお訣れしなければならなかったことはまことに残念であった。
先生の歿後、門人たちは相談の末に楳嶺門四天王の塾へそれぞれ岐れることになったのである。
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菊地芳文
谷口香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]
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