五枚も六枚もそうされる。次の日はその乾いたのをとり出して書き足す。またべたべたになる。放り出す……このようにして、五日ほどすると美事な雄渾な絵がそれぞれの構図で完成するという制作の方法であった。
あのような荒々しいやり方の先生をその後見たことはない。
刷毛を厭われたと同様に器物をつかって物の形をとることも極度にいやがられた。
たとえば月を描く場合でも太い逞しい筆をたばねて一種の腕力を以て一気にさっとかかれたものである。
当時京都画壇には今尾景年先生、岸竹堂先生、幸野楳嶺先生、森寛斎先生などの方々がそれぞれ一家をなしていられたが、景年先生なども月を描かれる時には丸い円蓋とか丸い盆、皿などを用いられて描かれていたが、松年先生は決してそのような器具は使われなかった。
「他人《ひと》はひと、私は決してそんな描法を用いない」
先生は常にそう言って、画家はあくまで筆一|途《すじ》にゆくべきであると強調された。
そういう気持ちの先生であるから物事にはこだわらないすこぶる豪快なところがあった。
毎月十五日には鈴木百年・鈴木松年の両社合併の月並会が丸山公園の平野屋の近くの牡丹畑という料亭で開かれたが、各自が自分の得意の絵を先生にお見せすると、先生は次々と弟子の絵を見て廻りながら、
「その線の力がたらぬ」
「ここは絵具をぬれ」
そう言って荒っぽい教えかたをされたものである。
百年先生は私の師匠ではないが、両社合併の席上でよくお会いし、いろいろと教わったものである。そのころ田能村直入だとか明治年間には南画――文人画が隆盛だったので、百年先生もその影響をうけて南画風のところが多少あったように記憶している。
松年先生は百年先生の実子であるが、その画風は百年先生と全然ちがっていた。
画学校時代の松年先生は、ほかの先生方と違って豪放磊落なやりかたで、学校でも他の先生方といくぶん意見が合わなかったのらしい。
しかし生徒たちにはとても受けがよかった。
豪快ななかにしみじみとした人情味があり、弟子を世の中へ送り出そう送り出そうとされたところなど大器のところがあった。
当時一般の絵画界の師弟関係というのは親子のようなもので、実に親しかった。
先生はよく鼻をくんくん鳴らされる癖があったし、足駄をコロコロ鳴らしてあるかれる風があった。
それで弟子たちもいつの間にか、
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