り、そんなことで頭をしぼるのがとても楽しかった。絵というものに苦悩ではなく心から嬉しい喜ばしい気分で接し得られたのである。
その「四季美人図」を描いた気持ちというのも同じようなもので、十六歳と言えばまだ半分は子供心であったわけで、あとから考えてもそれほどたいして頭をひねって制作したものではなかったように思う。
「先生、こないなふうに描こうと思うとりますがどないどっしゃろ?」
「ふん、こうしたらよかろ」
といったぐあいで、本当に子供らしい気ばり[#「気ばり」に傍点]で絵にむかっていったものである。
一枚の絵をながいことかかって描いた。
絵につかう用紙は、当時は普通紙本で稽古し、特別にどこかに飾ったり出品しなければならないようなものには絹本を用いたが、絹本に描くよりは紙本に描くことの方が難しかった。
第三回勧業博覧会は東京で開催されたが、まず私ども京都画壇では京都中の出品をその前年の明治二十二年十二月に京都府庁内で府庁の手によって展覧に供され、やがてそれを一まとめにして東京に荷送りしたもので、出品の人選はそれぞれの師が自分の弟子たちのなかから自由にえらんだものである。
「
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