なるためでなくて名を挙げるためだという風に見え過ぎます。毎年のことですが帝展前になりますと草稿を持って何人も何人もの先生の処に見て貰って廻わる若い人の話を聞きますが、これなどそっくりそのまま現代式な焦燥な心をあらわしてると思います。それが立派な先生の主宰する塾に弟子入りしてる人でそうなのです。師匠と頼んで弟子入りして置きながらそうした振舞いをするということは、いわば師匠をないがしろにしたことにもなるわけです。
 一体今日の師弟の関係からしてあまりに功利的に過ぎるというものです。社会的に名を成すために便宜だとか、帝展に入選するために都合がいいとか、まるでそういう道具に師匠をつかってる人があると言ってもいい程、それほど師弟の関係は浮薄な気がします。一生涯画を描いて過ごそうと覚悟して画家を志し、そうした生涯の仕事の指導者と頼むに足る師匠として、この人ならばと目指して弟子入りした人であるとするならば、その師匠こそこの世で唯一人の頼む人で他には比較されるべき人さえない筈なのです。
 西山翠嶂さんの容子や言葉扱いが、ふとするとそっくり栖鳳先生に似通ったもののあるのを感じさせられますが、師弟の間柄は
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