とは、当然すぎるほど当然なことです。けれども、芸術の作家が、その作品を生み出す苦しみを、単なる苦しみと考えることは、あまりにも作家として、芸術的余裕がないものだと思います。私ども作家は、少なくともその苦しみを楽しむだけの、余裕があって欲しいと考えます。
これは画のことではありませんが、私は日頃、謡曲を少しばかり習い覚えて、よく金剛巌氏の会などへ出かけます。
私はこの謡曲は、まだ初心同様のもので、申すまでもなく如何《いか》がわしいものですけれど、しかし、これもやはり画と同じ意味において、楽しむということを第一の目標にしております。
謡の会の席上などで、私が謡《うた》わねばならぬことになった時、席上には、えらい先生方や先輩の上手な方がずらりと並んでおり、ちょっと最初は謡いにくく思っていますが、少し経つと何もかも忘れて、案外大きな声をはりあげて、自分ながら楽しく謡い終わるという次第です。
私の謡い方が、まるで無我夢中で、少々節回しなどはどうあろうと、一向構わず、堂々とやっているには呆れる、と松篁《しょうこう》なども言っているそうです。
しかし、私はそれでいいと自分だけできめて
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング