と誰にでもはやれない地唄の中の許《ゆる》し物を嗄《か》れた渋い声で唄って来る。
 アッ来やはった、と思うと、私は絵の稽古をやめて表の格子の内らまで駆け出しては、この流しに聞きとれたものだった。
 その頃の祇園の夜桜は、今に較べるともっともっといい恰好だったが、桜の咲く頃など祇園さんの境内に茣蓙を敷いて、娘に胡弓を弾かせて自分の三味線と合わせてることもあったのを記憶してる。後ろにはお婆さんがいた。見れば人品も卑しくない。屹度《きっと》元は由緒ある人の落ちぶれたものに相違ないとも思わせた。
 こうしたしんみりした味なども、この頃の円山では味わえなくなってしまった。あの大声のラジオや蓄音機などというような唯騒々しいばかりのものなど素《もと》よりその頃はないので、こうした親子連れの町芸人の芸などもしんみり聞けたのだった。
 夏の磧《かわら》の容子にしても味があった。川幅がもっと広くて、浅い水がゆるゆると流れていた。四条の擬宝珠の橋の上から見下すと、その浅い川の上一面の雪洞《ぼんぼり》の灯が入って、よく見ると雪洞は床几に一つずつ置いてあるのだが、幾組も幾組ものお客さんがさんざめいている。藤屋という大きな料理屋が橋の西詰にあって、そこから小さな橋伝いに床几に御馳走を搬んで行く、芸妓や仲居やの行き来する影絵のような眺めも又ないものではあった。
 そうした床几の彼方此方には、魚釣りがあったり馬駆け場があったり、影絵、手妻師があったり、甘酒や善哉《ぜんざい》の店が出されていたり、兎に角|磧《かわら》一杯そうしたもので埋まってしまっていた。
 橋の下や西石垣の河ッぷしにも、善哉やうきふ[#「うきふ」に傍点]の店が出ていて床几に掛けられるようになっていた。

 祇園祭にしても、あの頃は如何にも屏風祭らしい気分が漂っていた。この頃のように鉄のボートなどの篏まった家などなく、純粋な京式な家ばかりだったので、お祭頃になると建具をとりはずしてしまって、奥の奥まで見透ける部屋々々に、簾が掛かっており雪洞が灯されてい、その光は今の電灯などに較べると何とも言えず床しくええものだった。

 そうした町中や店先に見る女の風などにしても、その頃はまだどっちかと言えば徳川時代の面影を半ばは残して、一入《ひとしお》懐かしいものがあった。
 この間帝展に出品した「母子」は、その頃への私の思い出を描いたものだが、い
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