わば私一人の胸の奥に残されてる懐かしい思い出なのだから、ああしたものも私だけが描くことを許された世界のような気がする。私はまだまだいろいろ沢山描きたいものを持ってるので、これから機会あるごとにああした思い出を描き残して置きたいと思う。年を追って順次新しい時代に及ぼしてみたいと思ってる。
この頃ではお嫁さんだか娘さんだか、髪形や帯着物などでは一向判断のつきかねる風俗になってしまってるが、その頃はお嫁さんはお嫁さん娘さんは娘さんと、ちゃんと区別がつき、女中は島田に黒襦子の帯を立子に結ぶ、という風にきちんときまったものだったし、同じお嫁さんの風にしても、花嫁中嫁とおんばちでは、髷にしても鹿の子の色にしても※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]物にしても何段にも何段にも区別があった。
総じて京風というと襟足の美しさが一際目立つもので、生え際の長い、白い頸筋に黒々とした髪の風情は、特に美しい人のためにこそ引き立ちもし、生えさがりの短い人など却って晴れがましい程だ。
五つ六つくらいの子の、ようやく髪の伸びかけたのは先ず「お莨盆《たばこぼん》」に結う。ちょっと鹿の子を掛けたりすると可愛いものだ。
少し髪が伸び揃うと「鬘下地」か「福髷」かに結う。そうたっぷりと伸びていないので、鬢を小さく出す。それを雀鬢と言った。
地蔵盆などに小さい娘の子が、襟を二本足三本足にして貰って、玉虫色の口唇をしたりしたのなど、ええものだった。
「桃割」「割れ葱」「お染髷」「鴛鴦《おしどり》」「ふくら雀」「横兵庫」「はわせ」など皆若い娘さん達の髷だが、中年のお嫁さんなどは「裂き笄」「いびし」などというのを結った。
明治時代の京風芸者の結った「投島田」も粋な、なかなかいいものだった。
然し時代は移り変っても、どの時代にもすたらずに永く続けられてるものは島田と丸髷で、娘さんの文金高島田にお母さんの丸髷は、品があって奥床しい。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「塔影」
1935(昭和10)年1月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年7月30日作成
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