まった。口許の美しさなど、この頃では京の女の人から消えてしまってると言いたい。
あの辺を奈良物町と言った。
丁度四条柳馬場の角に、金定という絹糸屋があって、そこにおらいさんというお嫁さんがいた。眉を落していたが、いつ見てもその剃り跡が青々していて、色の白い髪の濃い、襟足の長い、何とも言えない美しい人だった。
お菓子屋のお岸さんも美しい人だった。
面屋のやあさんも評判娘だった。面屋というのは人形屋のことで、お築という名だったが、近所ではやあさん、やあさんと言ってた。非常に舞の上手な娘さんで、殊に扇をつかうことがうまく、八枚扇をつかうその舞は役者でも真似が出来ないと言われたくらいで、なかなかの評判だった。
その頃の稽古物はみな大抵地唄だったが、やあさんのお母さんという人がやさしい女らしい人だったが三味線がうまくて、よく母娘で琴と三味線の合奏やら、お母さんの三味線に娘さんの舞やらで楽しんでいた。
夏など、店から奥が透いて見える頃になると、奥まった部屋でそうしたものが始まるのが、かど[#「かど」に傍点]を通ると聞こえてくる。今のように電車や自動車などなく、ようやく人力車が通るくらいのことだから、町中も大変静かだったので、そんなものが始まると、あッ又やあさんがやったはる、というのでかど[#「かど」に傍点]先には人が何人も何人も立停って立聞きするという有様だった。
この辺は立売町で、やあさんは立売町の小町娘だった。
その頃の町中はほんとに静かだった。よく人形芝居が町を歩き廻り、町角には浄瑠璃語りが人を集めてもいた。真似々々といって、その頃評判の伊丹屋や右団次の口跡《こうせき》を、芝居でやるその儘の感じを出して上手に真似る人がいた。ちょっと役者顔をした男だったが、私の母の話によると、元は市川市十郎と一緒に新京極の乞食芝居の仲間だった人だということで、それがいつの間にか零落して町芸人になってしまったということだった。
私なども娘時代には地唄の稽古をしたものだ。この頃では地唄など一向|廃《すた》ってしまったけど、その頃の町での稽古物というとまず地唄だった。
四条通りから堺町に越した頃、私はもう絵を習いかけていたが、その頃よく宵の口に、時をきめてかど[#「かど」に傍点]を地唄を流して来る六十余りのお爺さんがあった。それが大変うまく、緩急をつけて、なかなかちょっ
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