をかいた紙が、赤くなると、母は自分で書いてはりかえます。
母の二十六、七歳のころの手になるお茶の値段表を今も記念に残していますが、亀の齢一斤六圓也、綾の友一斤五圓五十銭也などと達者なお家流の字でかいてあります。正月の松の内など、店も表戸をしめて休みますが、その頃は出入口の戸障子に、酒屋なら「酒」お茶屋なら「茶」と大文字でかいてあったものですが、母は、そんな大文字も自分で書きました。店先にさげる大提灯も提灯やのかいた「茶」の字が、しけているといって真白く張りかえさせて自分で大きく「茶」とかきました。私は、その墨をすらされたので、よう覚えています。
私が二十八、九歳の頃、母は茶の商売をやめました。人は三十にして立つと言いますが、私も絵を描いて立ってゆけそうでしたので、母は私を絵をかく人らしい環境におこうと考えて商売をやめ、私が三十の年には、御池の車屋町に上品な家があったので、そこへ移り住みました。母は茶商売をやめる時、茶壺に残った沢山のお茶を「長年御ひいきに預りまして有難うございました」と言って、いつも玉露を買ってくれるところには玉露、煎茶のところは煎茶、お薄のところへはお薄と、全部配
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