の一度もそんな浮き名を立てられたことがなかったけれど、今度はけち[#「けち」に傍点]がつくだろうと思って、慄然《ぞっ》としました。
何にしても、もっとよく麻酔《ねむ》らせて、彼女を黙らせなければならぬので、私は矢つぎ早にクロロフォムを垂らしました。マスクがだらだらに濡れて、指先にしっとりと重さを感ずるぐらいでした。
『会いましょうね……晩に……二人っきりよ……そしたら、また抱擁してね……』
まだやっています。私は頭がぐらぐらっとしました。今度は何を云いだすか知れたもんじゃない――そう考えるといよいよ堪《たま》らなくなって、また一滴一滴と薬液を垂らしました。自分でも夢中で何をやっているかわかりませんでした。
ふと気がつくと、壜が空っぽになっています。サア大変、麻酔剤の量が多すぎた。愕然《ぎょっ》としてマスクを投げだし、あわてて女の眼瞼《まぶた》をあけると瞳孔が散大して、虹彩が殆んどなくなっているではありませんか。私は『待った!』と叫ぼうとしたが、言葉が咽喉《のど》に塞《つか》えて出て来ません。
その瞬間に、院長が、簡単だけれど心配そうな声で、
『はてナ、血圧が馬鹿に低くなったぞ』
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