と、いきなり私を押し除《の》けて、患者の顔へ身をかがめると、
『呼吸が止まってるじゃないか……酸素吸入か……エーテルを……早く早く……』
けれども、もう手遅れでした。可哀そうに、彼女はぐったりと仰《あお》のけに首を垂れ、その碧眼《あおめ》は、眼瞼《まぶた》をあげられたまま、きょとんと私の方を見ています。
われわれは有らゆる手段をつくしたけれど、何の効《かい》もありませんでした。麻酔死――あの恐ろしい麻酔死というやつが、彼女を私の手から永久に奪ってしまったのです」
こう語り終って、ドクトルは五分間もじっと黙想に沈んでいたが、やがて次のようにつけ加えた。
「こうした事故はしばしば起るもので、誰だって、絶対に麻酔剤の危険がないということは云えるものじゃありません。が、あの場合、私が彼女の恋人でなくて、冷静に仕事の出来る立場にあったなら、そして、彼女の生命を自分の手に握っているという重大な責任と、彼女を破滅させる恐ろしい秘密を譫語《うわごと》に聞くという、二重の苦悶で頭が惑乱することがなかったならば、私は決して彼女を死なせはしなかったでしょう」
それっきりドクトルは黙りこんだ。
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