も無駄ですよ。
私は今は七十の声がかかって、御覧のとおりの老ぼれなんだが、その時分は二十四になったばかりで、若い盛りでした。
私は病院の助手をやっていたが、恰度その頃、或る婦人と恋に陥《お》ちました。私としてはこれが後にも前《さき》にもたった一度の、そして熱烈な恋でした。
彼女と逢引をするためなら、どんな愚劣な真似でもやりかねなかったのです。そして彼女の平和のためや、世間の誹謗を防ぐためなら、どんな大きな犠牲をも払っただろうし、また、万一われわれの恋が暴露《ばれ》かけて、彼女に疑いがかかるような場合には、私は直ちに自殺をしようという意気込でした。われわれは何方《どっち》も若かったのです。女は、その時分、二十も年上の男と無理強いに結婚をさせられていました。それに、老人の口からこう申しちゃお恥かしい次第だが、われわれはお互いに真から惚れ合った同士でした。
数ヶ月間はこの上もなく幸福でした。慎ましくしていたので、誰一人感づいた者もなかったけれど、或る日、良人《おっと》なる人から私の許《ところ》へ急状があって、細君が大病だから来て診てくれということです。私はすぐにその家へ飛んでゆきまし
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