後のたのみの綱は、記録と、統計と、しかも、科学的なる臨床的、解剖学的、それ等である。けれども、いま、記録も統計も、すでに官僚的なる一技術に成り失《う》せ、科学、医学は、すでに婦人雑誌ふうの常識に堕し、小市民《リアリスト》は、何々開業医のえらさを知っても、野口英世の苦労を知らぬ。いわんや、解剖学の不確実など、寝耳に水であろう。天然なる厳粛の現実《リアリティ》の認識は、二・二六事件の前夜にて終局、いまは、認識のいわば再認識、表現の時期である。叫びの朝である。開花の、その一瞬まえである。
真理と表現。この両頭食い合いの相互関係、君は、たしかに学んだ筈だ。相剋《そうこく》やめよ。いまこそ、アウフヘエベンの朝である。信ぜよ、花ひらく時には、たしかに明朗の音を発する。これを仮りに名づけて、われら、「ロマン派の勝利。」という。誇れよ! わがリアリスト、これこそは、君が忍苦三十年の生んだ子、玉の子、光の子である。
この子の瞳の青さを笑うな。羞恥《しゅうち》深き、いまだ膚やわらかき赤子なれば。獅子《しし》を真似びて三日目の朝、崖の下に蹴落すもよし。崖の下の、蒲団《ふとん》わするな。勘当《かんどう
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