「日本の宿屋は、いいなあ。」と男。
「どうして?」
「しずかですから。」
「でも、波の音が、うるさいでしょう?」
「波の音には、なれています。自分の生れた村では、もっともっと波の音が高く聞えます。」
「お父さん、お母さん、待っているでしょうね。」
「お父さんは、ないんです。死んだのです。」
「お母さんだけ?」
「そうです。」
「お母さんは、いくつ?」と軽くたずねた。
「三十八です。」
私は暗闇の中で、ぱちりと眼をひらいてしまった。あの男が、はたち前後だとすると、その母のとしは、そりゃそうかも知れぬ、その筈《はず》だ、不思議は無い、とは思ったものの、しかし、三十八は隣室の私にとっても、ショックであった。
「…………」
とでも書かなければならぬように、果して女は黙ってしまった。はっと息を呑《の》んだ女の、そのかすかな気配が、闇をとおして隣室の私の呼吸にぴたりと合った感じがした。無理もない、あの女は三十八か、九であろう。
三十八と聞いて、息を呑んだのは、女中と、それから隣室の好色の先生だけで、若い帰還兵は、なんにも気づかぬ。
「あなたは、さっき、指にやけどしたとか言っていたけど、どう
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