である。けれども、恋人の森ちゃんは、いつも文学の本を一冊か二冊、ハンドバッグの中に入れて持って歩いて、そうしてけさの、井の頭公園のあいびきの時も、レエルモントフとかいう、二十八歳で決闘して倒れたロシヤの天才詩人の詩集を鶴に読んで聞かせて、詩などには、ちっとも何も興味の無かった鶴も、その詩集の中の詩は、すべて大いに気にいって、殊《こと》にも「帆」という題の若々しく乱暴な詩は、最も彼の現在の恋の心にぴったりと来たのだそうで、彼は森ちゃんに命じて何度も何度も繰りかえして朗読させたものである。
嵐の中にこそ、平穏、……。あらしの中にこそ、……。
鶴は、スズメを相手に、豆ランプの光のもとでウイスキイを飲み、しだいに楽しく酔って行った。午後十時ちかく、部屋の電燈がパッとついたが、しかし、その時にはもう、電燈の光も、豆ランプのほのかな光さえ、鶴には必要でなかった。
あかつき。
ドオウン。その気配を見た事のあるひとは知っているだろう。日の出以前のあの暁《ドオウン》の気配は、決して爽快《そうかい》なものではない。おどろおどろ神々の怒りの太鼓の音が聞えて、朝日の光とまるっきり違う何の光か、ねばっこ
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