つける。ふたり一緒に会社から帰って、火をおこして、笑い合いながら夕食して、ラジオを聞いて寝る、その部屋が、借りられなかった[#「借りられなかった」に傍点]口惜しさ。人を殺した恐怖など、その無念の情にくらべると、もののかずでないのは、こいをしている若者の場合、きわめて当然の事なのである。
 烈《はげ》しく動揺して、一歩、扉口のほうに向って踏み出した時、高円寺発車。すっと扉が閉じられる。
 ジャンパーのポケットに手をつっ込むと、おびただしい紙屑《かみくず》が指先に当る。何だろう。はっと気がつく。金だ。ほのぼのと救われる。よし、遊ぼう。鶴は若い男である。
 東京駅下車。ことしの春、よその会社と野球の試合をして、勝って、その時、上役に連れられて、日本橋の「さくら」という待合に行き、スズメという鶴よりも二つ三つ年上の芸者にもてた。それから、飲食店|閉鎖《へいさ》の命令の出る直前に、もういちど、上役のお供で「さくら」に行き、スズメに逢った。
「閉鎖になっても、この家へおいでになって私を呼んで下さったら、いつでも逢えますわよ。」
 鶴はそれを思い出し、午後七時、日本橋の「さくら」の玄関に立ち、落ちつ
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