の枕元まで近寄つていつたが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めてゐるだけであつた。
葉藏は、眼をひらいてうす笑ひしながら聲をかけた。「おどろいたらう。」
びつくりして、葉藏の顏をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答へた。「うん。」
「どうして知つたの?」
飛騨はためらつた。右手をズボンのポケツトから拔いてひろい顏を撫でまはしながら、眞野へ、言つてもよいか、と眼でこつそり尋ねた。眞野はまじめな顏をしてかすかに首を振つた。
「新聞に出てゐたのかい?」
「うん。」ほんとは、ラヂオのニウスで知つたのである。
葉藏は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思つた。もつとうち解けて呉れてもよいと思つた。一夜あけたら、もんどり打つて、おのれを異國人あつかひにしてしまつたこの十年來の友が憎かつた。葉藏は、ふたたび眠つたふりをした。
飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリツパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉藏の枕元に立つてゐた。
ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大學生が、ひよつくりその美しい顏を出した。飛騨はそれを見つけて、唸るほどほつとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追ひはらひながら、わざとゆつたりした歩調でドアのはうへ行つた。
「いま着いたの?」
「さう。」小菅は、葉藏のはうを氣にしつつ、せきこんで答へた。
小菅といふのである。この男は、葉藏と親戚であつて、大學の法科に籍を置き、葉藏とは三つもとしが違ふのだけれど、それでも、へだてない友だちであつた。あたらしい青年は、年齡にあまり拘泥せぬやうである。冬休みで故郷へ歸つてゐたのだが、葉藏のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで來たのであつた。ふたりは廊下へ出て立ち話をした。
「煤がついてゐるよ。」
飛騨は、おほつぴらにげらげら笑つて、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙が、そこにうつすりこびりついてゐた。
「さうか。」小菅は、あわてて胸のポケツトからハンケチを取りだし、さつそく鼻のしたをこすつた。「どうだい。どんな工合ひだい。」
「大庭か? だいぢやうぶらしいよ。」
「さうか。――落ちたかい。」鼻のしたをぐつとのばして飛騨に見せた。
「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大變な騷ぎだらう。」
ハンケチを胸のポケツトにつつこみながら返事した。「うん。大騷ぎさ。お葬ひみたいだつたよ。」
「うちから誰か來るの?」
「兄さんが來る。親爺さんは、ほつとけ、と言つてる。」
「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。
「葉ちやんは、ほんとに、よいのか。」
「案外、平氣だ。あいつは、いつもさうなんだ。」
小菅は浮かれてでもゐるやうに口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな氣持ちだらうな。」
「わからん。――大庭に逢つてみないか。」
「いいよ。逢つたつて、話することもないし、それに、――こはいよ。」
ふたりは、ひくく笑ひだした。
眞野が病室から出て來た。
「聞えてゐます。ここで立ち話をしないやうにしませうよ。」
「あ。そいつあ。」
飛騨は恐縮して、おほきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議さうなおももちで眞野の顏を覗いてゐた。
「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」
「まだです。」ふたり一緒に答へた。
眞野は顏を赤くして噴きだした。
三人がそろつて食堂へ出掛けてから、葉藏は起きあがつた。雨にけむる沖を眺めたわけである。
「ここを過ぎて空濛の淵。」
それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このやうな時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市《まち》。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、榮ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のけふまでの生活を消すことだ。
「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」
この言葉は間が拔けて、よい。小菅がそれを言つたのである。したり顏にさう言つて、ミルクの茶碗を持ち直した。
四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勳章を胸に三つ附けた肖像畫が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひつそり並んでゐた。食堂は、がらんとしてゐた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとつてゐた。
「ずゐぶん、はげしくやつてゐたよ。」小菅は聲をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまはつてゐたのでは、死にたくもなるよ。」
「行動隊のキヤツプだらう。知つてゐる。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかへしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶつたのではない。左翼の用語ぐらゐ、そのころの青年なら誰でも知つ
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