てゐた。「しかし、――それだけでないさ。藝術家はそんなにあつさりしたものでないよ。」
食堂は暗くなつた。雨がつよくなつたのである。
小菅はミルクをひとくち飮んでから言つた。「君は、ものを主觀的にしか考へれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客觀的な大きい原因がひそんでゐるものだ、といふ。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまつてゐたが、僕は、さうでないと言つて置いた。女はただ、みちづれさ。別なおほきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、變なことを言ふ。いかんぞ。」
飛騨は、あしもとの燃えてゐるストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあつたのだよ。」
ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は應じた。「知つてるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちやんにとつては、屁でもないことさ。女に亭主があつたから、心中するなんて、甘いぢやないか。」言ひをはつてから、頭のうへの肖像畫を片眼つぶつて狙つて眺めた。「これが、ここの院長かい。」
「さうだらう。しかし、――ほんたうのことは、大庭でなくちやわからんよ。」
「それあさうだ。」小菅は氣輕く同意して、きよろきよろあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。「寒いなあ。君は、けふここへ泊るかい。」
飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊る。」
青年たちはいつでも本氣に議論をしない。お互ひに相手の神經へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神經をも大切にかばつてゐる。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きつとそこまで思ひつめる。だから、あらそひをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を數多く知つてゐる。否といふ一言をさへ、十色くらゐにはなんなく使ひわけて見せるだらう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交してゐるのだ。そしておしまひに笑つて握手しながら、腹のなかでお互ひがともにともにかう呟く。低腦め!
さて、僕の小説も、やうやくぼけて來たやうである。ここらで一轉、パノラマ式の數齣を展開させるか。おほきいことを言ふでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。
翌る朝は、なごやかに晴れてゐた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼつてゐた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
い號室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であつた。附添ひの看護婦と、おはやうを言ひ交し、すぐ朝の體温を計つた。六度四分あつた。それから、食前の日光浴をしにヴエランダへ出た。看護婦にそつと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に號室のヴエランダを盜み見してゐたのである。きのふの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て籐椅子に坐り、海を眺めてゐた。まぶしさうにふとい眉をひそめてゐた。そんなによい顏とも思へなかつた。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いてゐた。日光浴用の寢臺に横はつて、薄目あけつつそれだけを觀察してから、看護婦に本を持つて來させた。ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]リイ夫人。ふだんはこの本を退屈がつて、五六頁も讀むと投げ出してしまつたものであるが、けふは本氣に讀みたかつた。いま、これを讀むのは、いかにもふさはしげであると思つた。ぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから讀み始めた。よい一行を拾つた。「エンマは、炬火《たいまつ》の光で、眞夜中に嫁入りしたいと思つた。」
ろ號室の患者も、眼覺めてゐた。日光浴をしにヴエランダへ出て、ふと葉藏のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かつた。すぐベツドへもぐり込んでしまつたのである。附添ひの母親は、笑ひながら毛布をかけてやつた。ろ號室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話聲に耳傾けた。
「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑ひ聲が。
飛騨と小菅が泊つてゐたのである。その隣りの空いてゐた病室のひとつベツドにふたりで寢た。小菅がさきに眼を覺まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴエランダへ出た。葉藏のすこし氣取つたポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを搜しに、くるつと左へ首をねぢむけた。いちばん端のヴエランダでわかい女が本を讀んでゐた。女の寢臺の背景は、苔のある濡れた石垣であつた。小菅は、西洋ふうに肩をきゆつとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠つてゐる飛騨をゆり起した。
「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちやんの大ポオズ。」
彼等の會話には、「大」といふ形容詞がしばしば用ゐられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる對象が欲しいからで
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