道化の華
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悲しみの市《まち》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+頻」、第3水準1−15−29]
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「ここを過ぎて悲しみの市《まち》。」
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
大庭葉藏はベツドのうへに坐つて、沖を見てゐた。沖は雨でけむつてゐた。
夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。やれやれ、大仰きはまつたり。だいいち、大庭葉藏とはなにごとであらう。酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手を拍つた。この姓名は、僕の主人公にぴつたり合つた。大庭は、主人公のただならぬ氣魄を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんたうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉藏とかう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに劃期的ではないか。その大庭葉藏が、ベツドに坐り雨にけむる沖を眺めてゐるのだ。いよいよ劃期的ではないか。
よさう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から來るやうだ。現に僕にしても、ひとから言はれたくないゆゑ、まづまつさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もつと素直にならなければいけない。ああ、謙讓に。
大庭葉藏。
笑はれてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだらうけれど、僕にはちよつとめんだうらしい。いつそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顏して述懷する奇妙な男が出て來ないとも限らぬ。ほんたうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉藏をやはり押し通す。をかしいか。なに、君だつて。
一九二九年、十二月のをはり、この青松園といふ海濱の療養院は、葉藏の入院で、すこし騷いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がゐた。二人の重症患者と、十一人の輕症患者とがゐて、あとの二十三人は恢復期の患者であつた。葉藏の收容された東第一病棟は、謂はば特等の入院室であつて、六室に區切られてゐた。葉藏の室の兩隣りは空室で、いちばん西側のへ號室には、脊と鼻のたかい大學生がゐた。東側のい號室とろ號室には、わかい女のひとがそれぞれ寢てゐた。三人とも恢復期の患者である。その前夜、袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを搜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乘り出して行く掛聲を、三人は、胸とどろかせて聞いてゐた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。大學生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかつた。あけがたになつて、女の死體が袂ヶ浦の浪打際で發見された。短く刈りあげた髮がつやつや光つて、顏は白くむくんでゐた。
葉藏は園の死んだのを知つてゐた。漁船でゆらゆら運ばれてゐたとき、すでに知つたのである。星空のしたでわれにかへり、女は死にましたか、とまづ尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答へた。なにやら慈悲ぶかい口調であつた。死んだのだな、とうつつに考へて、また意識を失つた。ふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにゐた。狹くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいつぱいつまつてゐた。そのなかの誰かが葉藏の身元をあれこれと尋ねた。葉藏は、いちいちはつきり答へた。夜が明けてから、葉藏は別のもつとひろい病室に移された。變を知らされた葉藏の國元で、彼の處置につき、取りあへず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉藏のふるさとは、ここから二百里もはなれてゐた。
東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寢てゐるといふことに不思議な滿足を覺え、けふからの病院生活を樂しみにしつつ、空も海もまつたく明るくなつた頃やうやく眠つた。
葉藏は眠らなかつた。ときどき頭をゆるくうごかしてゐた。顏のところどころに白い
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