覺えたのである。ただ微笑をもつて答へた。
 兄はそのあひだに、几帳面らしく眞野と飛騨へ、お世話になりました、と言つてお辭儀をして、それから小菅へ眞面目な顏で尋ねた。「ゆうべは、ここへ泊つたつて?」
「さう。」小菅は頭を掻き掻き言つた。「となりの病室があいてゐましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらひました。」
「ぢや今夜から私の旅籠《はたご》へ來給へ。江の島に旅籠をとつてゐます。飛騨さん、あなたも。」
「はあ。」飛騨はかたくなつてゐた。手にしてゐる三枚のトランプを持てあましながら返事した。
 兄は、なんでもなささうにして葉藏のはうを向いた。
「葉藏、もういいか。」
「うん。」ことさらに、にがり切つて見せながらうなづいた。
 兄は、にはかに饒舌になつた。
「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ませうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただかうと思つて。すぐ、出掛けませう。自動車を待たせてあるのです。よいお天氣だ。」
 僕は後悔してゐる。二人のおとなを登場させたばかりに、すつかり滅茶滅茶である。葉藏と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかつてせつかくよい工合ひにもりあげた、いつぷう變つた雰圍氣も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰圍氣のロマンスにしたかつたのである。はじめの數頁でぐるぐる渦を卷いた雰圍氣をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つてゐたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて來た。しかし、土崩瓦解である。
 許して呉れ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いてゐるうちに、その、雰圍氣のロマンスなぞといふことが氣はづかしくなつて來て、僕がわざとぶちこはしたまでのことなのである。もしほんたうに土崩瓦解に成功してゐるのなら、それはかへつて僕の思ふ壺だ。惡趣味。いまになつて僕の心をくるしめてゐるのはこの一言である。ひとをわけもなく威壓しようとするしつつこい好みをさう呼ぶのなら、或ひは僕のこんな態度も惡趣味であらう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかつたのだ。しかし、それは、はかない努力であらう。あ! 作家はみんなかういふものであらうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなからうか。ほんたうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。かう書きつつも僕は僕の文章を氣にしてゐる。
 なにもかもさらけ出す。ほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描寫の間に、僕といふ男の顏を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあつてのことなのだ。僕は、それを讀者に氣づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れてゐた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつた。いや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな氣がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言ふことをひとことも信ずるな。
 僕はなぜ小説を書くのだらう。新進作家としての榮光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居氣を拔きにして答へろ。どつちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いてゐる。このやうな嘘には、ひとはうつかりひつかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだらう。困つたことを言ひだしたものだ。仕方がない。思はせぶりみたいでいやではあるが、假に一言こたへて置かう。「復讐。」
 つぎの描寫へうつらう。僕は市場の藝術家である。藝術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニユアンスをもたらして呉れたら、それはもつけのさいはひだ。

 葉藏と眞野とがあとに殘された。葉藏は、ベツドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考へごとをしてゐた。眞野はソフアに坐つて、トランプを片づけてゐた。トランプの札を紫の紙箱にをさめてから、言つた。
「お兄さまでございますね。」
「ああ、」たかい天井の白壁を見つめながら答へた。「似てゐるかな。」
 作家がその描寫の對象に愛情を失ふと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言ふまい。なかなか乙な文章だよ。
「ええ。鼻が。」
 葉藏は、聲をたてて笑つた。葉藏のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かつたのである。
「おいくつでいらつしやいます。」眞野も少し笑つて、さう尋ねた。
「兄貴か?」眞野のはうへ顏をむけた。「若いのだよ。三十四さ。おほきく構へて、いい氣になつてゐやがる。」
 眞野は、ふつと葉藏の顏を見あげた。眉をひそめて話してゐるのだ
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