ゐる。小菅が、深夜、厠へ行つたそのときでさへ、おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たといふ。小菅がそのわかい女とすれちがつたあとで、しみじみ、よかつたと思つた。外套を着て出てよかつたと思つた。ほつと溜息ついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を覗いてみたら、失敗であつた。外套のしたから、うす汚い股引をつけた兩脚がによつきと出てゐる。
「いやはや、」さすがに輕く笑ひながら言ふのであつた。「股引はねぢくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えてゐるのさ。顏は寢ぶくれにふくれて。」
葉藏は、内心そんなに笑つてもゐないのである。小菅のつくりばなしのやうにも思はれた。それでも大聲で笑つてやつた。友がきのふに變つて、葉藏へ打ち解けようと努めて呉れる、その氣ごころに對する返禮のつもりもあつて、ことさらに笑ひこけてやつたのである。葉藏が笑つたので、飛騨も眞野も、ここぞと笑つた。
飛騨は安心してしまつた。もうなんでも言へると思つた。まだまだ、と抑へたりした。ぐづぐづしてゐたのである。
調子に乘つた小菅が、かへつて易々と言つてのけた。
「僕たちは、女ぢや失敗するよ。葉ちやんだつてさうぢやないか。」
葉藏は、まだ笑ひながら、首を傾けた。
「さうかなあ。」
「さうさ。死ぬてはないよ。」
「失敗かなあ。」
飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであらうと、この年少の友をぎゆつと抱いてやりたい衝動を感じた。
飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃りつつ言ひだした。
「失敗かどうかは、ひとくちに言へないと思ふよ。だいいち原因が判らん。」まづいなあ、と思つた。
すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判つてる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思ふよ。飛騨はこいつ、もつたいぶつてね、他にある、なんて言ふんだ。」間髮をいれず飛騨は應じた。「それもあるだらうが、それだけぢやないよ。つまり惚れてゐたのさ。いやな女と死ぬ筈がない。」
葉藏になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言つたのであるが、それはかへつておのれの耳にさへ無邪氣にひびいた。大出來だ、とひそかにほつとした。
葉藏は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。惡徳の巣。疲勞。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶつた。言つてしまはうかと思つた。わざとしよげかへつて呟いた。
「ほんたうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のやうな氣がして。」
「判る。判る。」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がゐないよ。氣をきかせたのかしら。」
僕はまへにも言ひかけて置いたが、彼等の議論は、お互ひの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのふるためになされる。なにひとつ眞實を言はぬ。けれども、しばらく聞いてゐるうちには、思はぬ拾ひものをすることがある。彼等の氣取つた言葉のなかに、ときどきびつくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんたうらしいものをふくんでゐるのだ。葉藏はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうつかり吐いてしまつた本音ではなからうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或ひは、自尊心だけ、と言つてよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのやうな微風にでもふるへをののく。侮辱を受けたと思ひこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉藏がおのれの自殺の原因をたづねられて當惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。
その日のひるすぎ、葉藏の兄が青松園についた。兄は、葉藏に似てないで、立派にふとつてゐた。袴をはいてゐた。
院長に案内され、葉藏の病室のまへまで來たとき、部屋のなかの陽氣な笑ひ聲を聞いた。兄は知らぬふりをしてゐた。
「ここですか?」
「ええ。もう御元氣です。」院長は、さう答へながらドアを開けた。
小菅がおどろいて、ベツドから飛びおりた。葉藏のかはりに寢てゐたのである。葉藏と飛騨とは、ソフアに並んで腰かけて、トランプをしてゐたのであつたが、ふたりともいそいで立ちあがつた。眞野は、ベツドの枕元の椅子に坐つて編物をしてゐたが、これも、間がわるさうにもぢもぢと編物の道具をしまひかけた。
「お友だちが來て下さいましたので、賑やかです。」院長はふりかへつて兄へさう囁きつつ、葉藏の傍へあゆみ寄つた。「もう、いいですね。」
「ええ。」さう答へて、葉藏は急にみじめな思ひをした。
院長の眼は、眼鏡の奧で笑つてゐた。
「どうです。サナトリアム生活でもしませんか。」
葉藏は、はじめて罪人のひけ目を
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