。あわてて眼を伏せた。
「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺が。」
 言ひかけて口を噤んだ。葉藏はおとなしくしてゐる。僕の身代りになつて、妥協してゐるのである。
 眞野は立ちあがつて、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行つた。もとのやうに、また葉藏の枕元の椅子に坐り、編物をはじめながら、眞野もまた考へてゐた。思想でもない、戀愛でもない、それより一歩てまへの原因を考へてゐた。
 僕はもう何も言ふまい。言へば言ふほど、僕はなんにも言つてゐない。ほんたうに大切なことがらには、僕はまだちつとも觸れてゐないやうな氣がする。それは當前であらう。たくさんのことを言ひ落してゐる。それも當前であらう。作家にはその作品の價値がわからぬといふのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の效果を期待した僕は馬鹿であつた。ことにその效果を口に出してなど言ふべきでなかつた。口に出して言つたとたんに、また別のまるつきり違つた效果が生れる。その效果を凡そかうであらうと推察したとたんに、また新しい效果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりゐなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出來榮か、僕はそれをさへ知らうと思ふまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思ひも及ばぬたいへんな價値を生むことであらう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉體からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい氣にもなるのであらう。はつきり言へば、僕は自信をうしなつてゐる。

 電氣がついてから、小菅がひとりで病室へやつて來た。はひるとすぐ、寢てゐる葉藏の顏へおつかぶさるやうにして囁いた。
「飮んで來たんだ。眞野へ内緒だよ。」
 それから、はつと息を葉藏の顏へつよく吐きつけた。酒を飮んで病室へ出はひりすることは禁ぜられてゐた。
 うしろのソフアで編物をつづけてゐる眞野をちらと横眼つかつて見てから、小菅は叫ぶやうにして言つた。「江の島をけんぶつして來たよ。よかつたなあ。」そしてすぐまた聲をひくめてささやいた。
「嘘だよ。」
 葉藏は起きあがつてベツドに腰かけた。
「いままで、ただ飮んでゐたのか。いや、構はんよ。眞野さん、いいでせう?」
 眞野は編物の手をやすめずに、笑ひながら答へた。「よくもないんですけれど。」
 小菅はベツドの上へ仰向にころがつた。
「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ。」
 葉藏はだまつてゐた。
「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだ。すつかりかたをつけてしまふんだつて。飛騨は馬鹿だなあ。昂奮してゐやがつた。飛騨は、けふむかうへ泊るよ。僕は、いやだから歸つた。」
「僕の惡口を言つてゐたらう。」
「うん。言つてゐたよ。大馬鹿だと言つてる。此の後も、なにをしでかすか、判つたものぢやないと言つてた。しかし親爺もよくない、と附け加へた。眞野さん、煙草を吸つてもいい?」
「ええ。」涙が出さうなのでそれだけ答へた。
「浪の音が聞えるね。――よき病院だな。」小菅は火のついてない煙草をくはへ、醉つぱらひらしくあらい息をしながらしばらく眼をつぶつてゐた。やがて、上體をむつくり起した。「さうだ。着物を持つて來たんだ。そこへ置いたよ。」顎でドアの方をしやくつた。
 葉藏は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包に眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言へば財産といふ單語を思ひ出すのには變りがないやうだ。「おふくろには、かなはん。」
「うん、兄さんもさう言つてる。お母さんがいちばん可愛さうだつて。かうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんたうだよ、君。――眞野さん、マッチない?」眞野からマツチを受け取り、その箱に畫かれてある馬の顏を頬ふくらませて眺めた。「君のいま着てゐるのは、院長から借りた着物だつてね。」
「これか? さうだよ。院長の息子の着物さ。――兄貴は、その他にも何か言つたらうな。僕の惡口を。」
「ひねくれるなよ。」煙草へ火を點じた。「兄さんは、わりに新らしいよ。君を判つてゐるんだ。いや、さうでもないかな。苦勞人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言ひ合つたんだが、そのときにね、おほ笑ひさ。」けむりの輪を吐いた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉藏が放蕩をして金に窮したからだ。大眞面目で言ふんだよ。それとも、これは兄として言ひにくいことだが、きつと恥かしい病氣にでもかかつて、やけくそになつたのだらう。」酒でどろんと濁つた眼を葉藏にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ。」

 今宵は泊るの
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