つまず》いた。キクちゃんは、じっとしていた。
「こりゃ、いけねえ。」
 と私はひとりごとのように呟《つぶや》き、やっと窓のカアテンに触って、それを排して窓を少しあけ、流水の音をたてた。
「キクちゃんの机の上に、クレーヴの奥方という本があったね。」
 私はまた以前のとおりに、からだを横たえながら言う。
「あの頃の貴婦人はね、宮殿のお庭や、また廊下の階段の下の暗いところなどで、平気で小便をしたものなんだ。窓から小便をするという事も、だから、本来は貴族的な事なんだ。」
「お酒お飲みになるんだったら、ありますわ。貴族は、寝ながら飲むんでしょう?」
 飲みたかった。しかし、飲んだら、あぶないと思った。
「いや、貴族は暗黒をいとうものだ、元来が臆病《おくびょう》なんだからね。暗いと、こわくて駄目《だめ》なんだ。蝋燭《ろうそく》が無いかね。蝋燭をつけてくれたら、飲んでもいい。」
 キクちゃんは黙って起きた。
 そうして、蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。
「どこへ置きましょう。」
「燭台《しょくだい》は高きに置け、とバイブルに在るから、高いとこ
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