してしまって、大演説なぞは、思いも寄らぬ事である。いよいよ酔漢の放言として、嘲笑されるくらいのところであろう。唐突に、雪溶けの小川が眼に浮ぶ。岸に、青々と芹《せり》が。あああ、私には言いたい事があるのだ。山々あったのである。けれども、急に、いやになった。なぜか、いやになった。いいのだ。私は永久に故郷に理解されないままで終っても、かまわないのだ。あきらめたのだ。衣錦還郷を、あきらめた。酔いがぐるぐる駈けめぐっている動乱の頭脳で、それでも、あれこれ考え悩み、きょうは、どうも、ごちそうさまでした、と新聞社の人にお礼を言って、それだけで引きさがろうと態度をきめた。その時の私の心で一ばん素直に、偽りなく言える言葉は、ただそのお礼だけであったのだ。けれども、とまた考えて、ごちそうさまでした、とだけ言って、それで引きさがるのは、なんだか、ふだん自分の銭《ぜに》でお酒を呑めない実相を露悪しているようで、賤《いや》しくないか、よせよせという内心の声も聞えて、私は途方に暮れていた。私の番が、来た。私は、くにゃくにゃと、どやしつけてやりたいほど不潔な、醜女の媚態を以て立ち上り、とっさのうちに考えた。Dの名前
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