からもそもそ、セルの袴をいじくっているのを、哀れと思ったのか、黙って立って来て、袴はくのを手伝ってくれた。袴の紐《ひも》を、まえに蝶の形にきちんと結んでくれた。私は、簡単にお礼を言って小走りにその部屋を出て、それから、わざとゆっくり正面の階段を昇り、途中で蝶の形をほどいてしまった。よごれたよれよれの紐で蝶の形は、てれくさく、みじめで閉口であったのである。
 会場へ一歩、足を踏み込むときは、私は、鼻じろむほどに緊張していた。今である。故郷に於ける十年来の不名誉を恢復《かいふく》するのは、いまである。名士の振りをしろ、名士の。とんと私の肩を叩いたものがある。見ると、甲野嘉一君である。私は、自分の歯の汚いのも忘れて、笑ってしまった。甲野嘉一君とは、十年来の友人である。同郷のゆえを以て交っているのでは無い。甲野君が、誠実の芸術家であるから、私が求めて友人にしてもらっているのである。甲野嘉一君も、笑った。私は、更に笑った。つつましく控えることを忘れてしまったのである。
 宴会の席が定まった。私は、まさしく文字どおりの末席であった。どさくさして、まあまあなどと言い合っているうちに、私は末席になって
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