、いいのだ。こんなに雨が降っているし、セルならば、すぐよれよれになってしまう。」どうしても、あれを、はいて行きたかったのである。
「セルが、いいのよ。」家内は、歎願の口調になった。「濡れないように風呂敷にお包みになって持っていらっしゃったら? 向うに着いてから、おはきになればいい。」
「そうしよう。」私は、あきらめた。
 風呂敷に、足袋《たび》と、セルの袴とを包んでもらって、尻はしょりし、雨の中を傘さして出掛けた。何だか悪い予感があった。
 宴会の場所は、日比谷公園の中の、有名な西洋料理屋である。午後五時半と指定されていたのであるが、途中バスの聯絡が悪くて、私は六時すぎに到着した。はきもの係りの青年に、こっそり頼んで玄関傍の小部屋を借り、そこで身なりを調えた。その部屋では、上品な洋服の、青白い顔をした十歳くらいの男の子が、だらし無く坐ってもぐもぐ菓子を食いながら、家庭教師に算術を教えてもらっていた。この料理屋の秘蔵息子なのかも知れない。家庭教師のほうは、二十七八の、白く太った、落ちついている女性で、ロイド眼鏡を掛けていた。私が部屋の隅で帯を締め直し、風呂敷包みをほどいて足袋をはき、それ
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