東京で暮した事のある男でね」
 甚だ、まずい事になって来た。私は女房に、母屋へ行って何か酒のさかなをもらって来なさい、と言いつけ、席をはずさせた。
 彼は悠然《ゆうぜん》と腰から煙草入れを取り出し、そうして、その煙草入れに附属した巾著《きんちゃく》の中から、ホクチのはいっている小箱だの火打石だのを出し、カチカチやって煙管《きせる》に火をつけようとするのだが、なかなかつかない。
「煙草は、ここにたくさんあるからこれを吸い給え。煙管は、めんどうくさいだろう」
 と私が言うと、彼は私のほうを見て、にやりと笑い、煙草入れをしまい込み、いかにも自慢そうに、
「われわれ百姓は、こんなものを持っているのだよ。お前たちは馬鹿にするだろうが、しかし、便利なものだ。雨の降る中でも、火打石は、カチカチとやりさえすれば火が出る。こんど俺は東京へ行く時、これを持参して銀座のまんなかで、カチカチとやってやろうと思うんだ。お前ももうすぐ東京へ帰るのだろう? 遊びに行くよ。お前の家は、東京のどこにあるのだ」
「罹災してね、どこへ行ったらいいか、まだきまっていないよ」
「そうか、罹災したのか。はじめて聞いた。それじゃ、
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