憶にないのが当りまえさ。けれど、どうだい、はじめて逢った兄なるものは、あんな安宿でごろごろしていて、風采《ふうさい》もぱっとせず、さびしくないか。」
「いいえ。」はっきり否定したが、どこか気まずそうに見えた。さびしいのだ。こういう人が在ると知ったら、私は、せめて中学校の先生くらいにはなっていたのにと、くやしく思った。
「さっきの郵便屋さんは、君のお友達かね。」私は、話題を転じた。
「そうです。」幸吉さんは、ぱっと明るい顔になって、「親友です。萩野君と言います。いい人ですよ。あの人は、こんどは手柄をたてました。まえから僕が、あの人に、あなたのことを言ってあかして居りましたので、あの人も、あなたのお名前を知ってしまって、そうして、たびたび、あなたのところへ郵便配達しているうちに、ふと、このひとじゃないかと思ったのだそうです。五、六日まえ、僕のところへ来て、そんなことを言いますから、僕もわくわくして、どんな人か、と聞きましたら、ただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから、顔は見たことがない、と言います。それなら、こんどは様子を、それとなく内偵してみてくれ、もし人ちがいだと、醜態だから、と妹まで一緒
前へ 次へ
全31ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング