る、船頭大いに驚き、これは竜の此《この》舟を巻上げんとするなり、急に髪を切って焼くべしとて船中の人々のこらず頭髪を切って火にくべしに臭気ふんぷんと空にのぼりしかば、かの黒雲たちまちに散り失《う》せたりとござったが、愚老もし若かったら、さいぜんただちに頭髪を切るべきに生憎《あいにく》、と言って禿《は》げた頭を真面目《まじめ》な顔して静かに撫《な》でた。へえ、そうですか、と観音経は、馬鹿《ばか》にし切ったような顔で、そっぽを向いて相槌《あいづち》を打ち、何もかも観音のお力にきまっていますさ、と小声で呟き、殊勝げに瞑目《めいもく》して南無観世音大菩薩《なむかんぜおんだいぼさつ》と称《とな》えれば、やあ、ぜにはあった! と自分の懐《ふところ》の中から足りない一両を見つけて狂喜する者もあり、金内は、ただにこにこして、やがて船はゆらゆら港へはいり、人々やれ命拾いと大恩人の目前にあるも知らず、互いに無邪気に慶祝し合って上陸した。
中堂金内は、ほどなく松前城に帰着し、上役の野田武蔵《のだむさし》に、このたびの浦々巡視の結果をつぶさに報告して、それからくつろぎ、よもやまの旅の土産話のついでに、れいの人
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