に吹聴《ふいちょう》するような軽薄な武士でない。黙って微笑《ほほえ》み、また前のように腕組みして舷によりかかって坐《すわ》っている。船客もそろそろ土色の顔を挙げ、てれ隠しにけたたましく笑う者あり、せっかくの酒を何の興もなく飲んでしまって、後の楽しみを無くした、と五寸ばかりのひさごをさかさに振って、そればかり愚痴っている者もあり、或《ある》いはまた、さいぜん留守宅の若いお妾《めかけ》の名を叫んで身悶えしていた八十歳の隠居は、さてもおそろしや、とおもむろに衣紋《えもん》を取りつくろい、これすなわち登竜《のぼりりゅう》に違いござらぬ、と断じ、そもそもこの登竜は越中越後《えっちゅうえちご》の海中に多く見受けられるものにして、夏日に最もしばしばこの事あり、一群の黒雲|虚空《こくう》より下り来れば海水それに吸われるが如く応じて逆巻《さかまき》のぼり黒雲潮水一柱になり、まなこをこらしてその凄《すさま》じき柱を見れば、はたせるかな、竜の尾頭その中に歴々たりとものの本にござった、また別の一書には、或る人、江戸より船にてのぼりしに東海道の興津《おきつ》の沖を過ぎる時に一むらの黒雲虚空よりかの船をさして飛来
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