ではありません、ご近所の有難《ありがた》いお情を無にせぬよう、今夜これから、ことしの諸払いの算用を、ざっとやって見ましょう、と大福帳やら算盤《そろばん》を押しつければ、亭主は眼をしぶくあけて、泥酔《でいすい》の夢にも債鬼に苦しめられ、いまふっと眼がさめると、われは百両の金持なる事に気附いて、勇気百千倍、むっくり起き上り、
「よし来た、算盤よこせ、畜生め、あの米屋の八右衛門《はちえもん》は、わしの先代の別家なのに、義理も恩も人情も忘れて、どこよりもせわしく借りを責め立てやがって、おのれ、今に見ろと思っていたが、畜生め、こんど来たら、あの皺面《しわづら》に小判をたたきつけて、もう来年からは、どんなにわしにお世辞を言っても、聞かぬ振りして米は八右衛門の隣りの与七の家から現金で買って、帰りには、あいつの家の前で小便でもして来る事だ。とにかく、あの神棚の桝をおろせ。久しぶりで山吹の色でも拝もう。」と大あぐらで威勢よく言い、女房もいそいそと立って神棚から一升桝をおろして見ると、桝はからっぽ、一枚の小判も無い。夫婦は仰天して、桝をさかさにしたり叩《たた》いてみたり、そこら中を這《は》い廻ってみたり、
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