に吹聴《ふいちょう》するような軽薄な武士でない。黙って微笑《ほほえ》み、また前のように腕組みして舷によりかかって坐《すわ》っている。船客もそろそろ土色の顔を挙げ、てれ隠しにけたたましく笑う者あり、せっかくの酒を何の興もなく飲んでしまって、後の楽しみを無くした、と五寸ばかりのひさごをさかさに振って、そればかり愚痴っている者もあり、或《ある》いはまた、さいぜん留守宅の若いお妾《めかけ》の名を叫んで身悶えしていた八十歳の隠居は、さてもおそろしや、とおもむろに衣紋《えもん》を取りつくろい、これすなわち登竜《のぼりりゅう》に違いござらぬ、と断じ、そもそもこの登竜は越中越後《えっちゅうえちご》の海中に多く見受けられるものにして、夏日に最もしばしばこの事あり、一群の黒雲|虚空《こくう》より下り来れば海水それに吸われるが如く応じて逆巻《さかまき》のぼり黒雲潮水一柱になり、まなこをこらしてその凄《すさま》じき柱を見れば、はたせるかな、竜の尾頭その中に歴々たりとものの本にござった、また別の一書には、或る人、江戸より船にてのぼりしに東海道の興津《おきつ》の沖を過ぎる時に一むらの黒雲虚空よりかの船をさして飛来る、船頭大いに驚き、これは竜の此《この》舟を巻上げんとするなり、急に髪を切って焼くべしとて船中の人々のこらず頭髪を切って火にくべしに臭気ふんぷんと空にのぼりしかば、かの黒雲たちまちに散り失《う》せたりとござったが、愚老もし若かったら、さいぜんただちに頭髪を切るべきに生憎《あいにく》、と言って禿《は》げた頭を真面目《まじめ》な顔して静かに撫《な》でた。へえ、そうですか、と観音経は、馬鹿《ばか》にし切ったような顔で、そっぽを向いて相槌《あいづち》を打ち、何もかも観音のお力にきまっていますさ、と小声で呟き、殊勝げに瞑目《めいもく》して南無観世音大菩薩《なむかんぜおんだいぼさつ》と称《とな》えれば、やあ、ぜにはあった! と自分の懐《ふところ》の中から足りない一両を見つけて狂喜する者もあり、金内は、ただにこにこして、やがて船はゆらゆら港へはいり、人々やれ命拾いと大恩人の目前にあるも知らず、互いに無邪気に慶祝し合って上陸した。
 中堂金内は、ほどなく松前城に帰着し、上役の野田武蔵《のだむさし》に、このたびの浦々巡視の結果をつぶさに報告して、それからくつろぎ、よもやまの旅の土産話のついでに、れいの人
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