入海《いりうみ》のほとりにたどりつき、そこから便船を求め、きょうのうちに次の港まで行くつもりで相客五、六人と北国の冬には珍らしく空もよく晴れ静かな海を船出して、汀《みぎわ》から八丁ほど離れた頃《ころ》、風も無いのに海がにわかに荒れ出して、船は木の葉の如く飜弄《ほんろう》せられ、客は恐怖のために土色の顔になって、思う女の名を叫び出し、さらばよ、さらばよ、といやらしく悶《もだ》えて見せる者もあり、笈《おい》の中より観音経《かんのんぎょう》を取出し、さかさとも知らず押しいただき、そのまま開いておろおろ読み上げる者もあり、瓢箪《ひょうたん》を引き寄せ中に満たされてある酒を大急ぎで口呑《くちの》みして、これを飲みのこしては死んでも死にきれぬ、からになった瓢箪は浮袋になります、と五寸にも足りぬその小さいひさごを、しさいらしい顔つきで皆に見せびらかす者もあり、なんの意味か、しきりに指先で額《ひたい》に唾《つば》をなすりつけている者もあり、いそがしげに財布を出して金勘定、一両足りぬと呟《つぶや》いてあたりの客をいやな眼つきで睨《にら》む者もあり、いのちの瀬戸際《せとぎわ》にも、足がさわったとやらで無用の口論をはじめる者もあり人さまざまに騒ぎ立て、波はいよいよ高く、船は上下に荒く震動し、いまは騒ぐ力も尽き、船頭がまず船底にたおれ伏し、おゆるしなされ、と呻《うめ》いて死んだようにぐたりとなれば、船中の客、総泣きに泣き伏して、いずれも正体を失い、中堂金内ただひとり、はじめから舷《ふなばた》を背にしてあぐらを掻《か》き、黙って腕組して前方を見つめていたが、やがて眼《め》のさきの海水が金色に変り、五色の水玉噴き散ると見えしと同時に、白波二つにわれて、人魚、かねて物語に聞いていたのと同じ姿であらわれ、頭を振って緑の髪をうしろに払いのけ、水晶の腕で海水を一掻き二掻きするすると蛇《へび》の如く素早く金内の船に近づき、小さく赤い口をあけて一声爽やかな笛の音。おのれ船路のさまたげと、金内怒って荷物の中より半弓《はんきゅう》を取出し、神に念じてひょうと射れば、あやまたずかの人魚の肩先に当り、人魚は声もなく波間に沈み、激浪たちまち収まって海面はもとのように静かになり、斜陽おだやかに船中にさし込み、船頭は間抜《まぬ》け面《づら》で起き上り、なんだ夢か、と言った。金内は、おのれの手柄《てがら》を矢鱈《やたら》
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