かえしてやらなければならぬ、と次郎右衛門も、子への愛から発奮して、近所の者に、この頃のよろしき商売は何、などと尋ね、草の庵も去年にかわって活気を呈し、一子の菊之助もまるまると太ってよく笑い、母親のお蘭に似て輝くばかりの器量よし、猿の吉兵衛は野の秋草を手折《たお》って来て菊之助の顔ちかく差しのべて上手にあやし、夫婦は何の心配も無く共に裏の畑に出て大根を掘り、ことしの秋は、何かいい事でもあるか、と夫婦は幸福の予感にぬくまっていた。その頃、近所のお百姓から耳よりのもうけ話ありという事を聞き、夫婦は勇んで、或る秋晴れの日、二人そろってその者の家へ行ってくわしく話の内容を尋ね問いなどしている留守に、猿の吉兵衛、そろそろお坊ちゃんの入浴の時刻と心得顔で立ち上り、かねて奥様の仕方を見覚えていたとおりに、まず竈の下を焚《た》きつけてお湯をわかし、湯玉の沸き立つを見て、その熱湯を盥《たらい》にちょうど一ぱいとり、何の加減も見る迄も無く、子供を丸裸にして仔細《しさい》らしく抱き上げ、奥様の真似《まね》して子供の顔をのぞき込んでやさしく二、三度うなずき、いきなりずぶりと盥に入れた。
喚《わっ》という声ばかりに菊之助の息絶え、異様の叫びを聞いて夫婦は顔を見合せて家に駈け戻れば、吉兵衛うろうろ、子供は盥の中に沈んで、取り上げて見ればはや茹海老《ゆでえび》の如く、二目と見られぬむざんの死骸《しがい》、お蘭はこけまろびて、わが身に代えても今一度もとの可愛い面影《おもかげ》を見たしと狂ったように泣き叫ぶも道理、呆然《ぼうぜん》たる猿を捕えて、とかく汝《なんじ》は我が子の敵《かたき》、いま打殺すと女だてらに薪《まき》を振上げ、次郎右衛門も胸つぶれ涙とどまらぬながら、ここは男の度量、よしこれも因果の生れ合せと観念して、お蘭の手から薪を取上げ、吉兵衛を打ち殺したく思うも尤《もっと》もながら、もはや返らぬ事に殺生《せっしょう》するは、かえって菊之助が菩提《ぼだい》のため悪し、吉兵衛もあさましや我等《われら》への奉公と思いてしたるべけれども、さすが畜生の智慧《ちえ》浅きは詮方《せんかた》なし、と泣き泣き諭《さと》せば、猿の吉兵衛も部屋の隅《すみ》で涙を流して手を合せ、夫婦はその様を見るにつけいよいよつらく、いかなる前生の悪業《あくごう》ありてかかる憂目《うきめ》に遭うかと生きる望も消えて、菊之助を葬《ほう
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