と、かか、顔を見合せて、おかしくもなく、台所がかたりと鳴れば、鼠《ねずみ》か、小豆《あずき》に糞《ふん》されてはたまらぬ、と二人血相かえて立ち上り、秋の紅葉も春の菫《すみれ》も、何の面白《おもしろ》い事もなく、猿の吉兵衛は主人の恩に報いるはこの時と、近くの山に出かけては柏《かしわ》の枯枝や松の落葉を掻き集め、家に持ち帰って竈《かまど》の下にしゃがみ、松葉の煙に顔をそむけながら渋団扇《しぶうちわ》を矢鱈にばたばた鳴らし、やがてぬるいお茶を一服、夫婦にすすめて可笑《おか》しき中にも、しおらしく、ものこそ言わね貧乏世帯に気を遣い、夕食も遠慮して少量たべると満足の態《てい》でころりと寝て、次郎右衛門の食事がすむと駈け寄って次郎右衛門の肩をもむやら足腰をさするやら、それがすむと台所へ行きお蘭の後片附のお手伝いをして皿《さら》をこわしたりして実に面目なさそうな顔つきをして、夫婦は、せめてこの吉兵衛を唯一《ゆいいつ》のなぐさみにして身の上の憂《う》きを忘れ、そのとしも過ぎて翌年の秋、一子菊之助をもうけ、久し振りに草の庵から夫婦の楽しそうな笑声が漏れ聞え、夫婦は急に生きる事にも張合いが出て来て、それめめをさました、あくびをしたと騷ぎ立てると、吉兵衛もはねまわって喜び、山から木の実を取って来て、赤ん坊の手に握らせて、お蘭に叱られ、それでも吉兵衛には子供が珍らしくてたまらぬ様子で、傍《そば》を離れず寝顔を覗《のぞ》き込み、泣き出すと驚いてお蘭の許《もと》に飛んで行き裾《すそ》を引いて連れて来て、乳を呑《の》ませよ、と身振《みぶり》で教え、赤子の乳を呑むさまを、きちんと膝《ひざ》を折って坐って神妙に眺め、よい子守が出来たと夫婦は笑い、それにつけても、この菊之助も不憫なもの、もう一年さきに古里《ふるさと》の桑盛の家で生れたら、絹の蒲団《ふとん》に寝かせて、乳母を二人も三人もつけて、お祝いの産衣《うぶぎ》が四方から山ほど集り、蚤《のみ》一匹も寄せつけず玉の肌《はだ》のままで立派に育て上げる事も出来たのに、一年おくれたばかりに、雨風も防ぎかねる草の庵に寝かされて、木の実のおもちゃなど持たされ、猿が子守とは、と自分たちの無分別な恋より起ったという事も忘れて、ひたすら子供をいとおしく思い、よし、よし、いまはこのようにみじめだが、この子の物心地のつく迄《まで》は、何とか一財産つくって古里の親たちを見
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