きにあるようだ。
 二人は、その夜のうちに七里歩み、左方に博多《はかた》の海が青く展開するのを夢のように眺《なが》めて、なおも飲まず食わず、背後に人の足音を聞くたびに追手かと胆《きも》をひやし、生きた心地《ここち》も無くただ歩きに歩いて蹌踉《そうろう》とたどりついたところは其《そ》の名も盛者必衰《じょうしゃひっすい》、是生滅法《ぜしょうめっぽう》の鐘が崎、この鐘が崎の山添の野をわけて次郎右衛門のほのかな知合いの家をたずね、案の如く薄情のあしらいを受けて、けれどもそれも無理のない事と我慢して、ぶしつけながら、とお金を紙に包んで差し出し、その日は、納屋《なや》に休ませてもらい、浅間しき身のなりゆきと今はじめて思い当って青く窶《やつ》れた顔を見合せて溜息《ためいき》をつき、お蘭は、手飼いの猿《さる》の吉兵衛の背を撫《な》でながら、やたらに鼻をすすり上げた。この吉兵衛という名の猿は、小猿の頃からお蘭に可愛《かわい》がられて育ち、娘が男と一緒にひたすら夜道を急ぐ後を慕ってついて来て、一里あまり過ぎた頃、お蘭が見つけて叱《しか》って追っても、石を投げて追ってもひょこひょこついて来て、次郎右衛門は不憫《ふびん》に思い、せっかく慕って来たのだから仲間にいれておやり、と言い、お蘭は、おいで、と手招きすれば、うれしそうに駈け寄って来て、お蘭に抱かれて眼をぱちぱちさせて二人の顔を気の毒そうに眺める。いまはもう二人の忠義な下僕《げぼく》になりすまして、納屋へ食事を持ちはこぶやら、蠅《はえ》を追うやら、櫛《くし》でお蘭のおくれ毛を掻《か》き上げてやるやら、何かと要らないお手伝いをして、二人の淋《さび》しさを慰めてやろうと畜生ながら努めている。いかに世を忍ぶ身とは言え、いつまでも狭い納屋に隠れて暮しているわけにも行かず、次郎右衛門はさらに所持のお金の大半を出してその薄情の知合いの者にたのみ、すぐ近くの空地に見すぼらしい庵《いおり》を作ってもらい、夫婦と猿の下僕はそこに住み、わずかな土地を耕して、食膳《しょくぜん》に供するに足るくらいの野菜を作り、ひまひまに亭主《ていしゅ》は煙草《たばこ》を刻み、お蘭は木綿の枷《かせ》というものを繰って細々と渡世し、好きもきらいも若い一時の阿呆《あほ》らしい夢、親にそむいて家を飛び出し連添ってみても、何の事はない、いまはただありふれた貧乏|世帯《じょたい》の、と
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