べ》でぐつぐつ煮てござる。安産のまじないに要るとか言って、子安貝《こやすがい》、海馬《かいば》、松茸《まつたけ》の石づき、何の事やら、わけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せ、つくづく金持の大袈裟《おおげさ》な騒ぎ方にあいそがつきました。旦那様は、こんな時には家にいぬものだと言われて、これさいわい、すたこらここへ逃げて来ました。まるでこれでは、借金取りに追われて逃げて来たような形です。きょうは大晦日だから、そんな男もあるでしょうね。気の毒なものだ。いったいどんな気持だろう。酒を飲んでも酔えないでしょうね。いやもう、人さまざま、あはははは。」と力の無い笑声を発し、「時にどうです。言うも野暮だが、もちろん大晦日の現金払いで、子供の生れるまで、ここで一日あそばせてくれませんか。たまには、こんな小さい家で、こっそり遊ぶのも悪くない。おや、正月の鯛《たい》を買いましたね。小さい。家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。何も縁起ものだ。もっと大きいのを買ったらどう?」と軽く言って、一歩金一つ、婆の膝《ひざ》の上に投げてやった。
婆は先刻から、にこにこ笑ってこの男の話に相槌《あいづち》を打っていたが、心の中で思うよう、さてさて馬鹿《ばか》な男だ、よくもまあそんな大嘘《おおうそ》がつけたものだ、お客の口先を真に受けて私たちの商売が出来るものか。酔狂のお旦那がわざと台所口からはいって来て、私たちをまごつかせて喜ぶという事も無いわけではないが、眼つきが違いますよ。さっき、台所口から覗《のぞ》いたお前さんの眼つきは、まるで、とがにんの眼つきだった。借金取りに追われて来たのさ。毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄《しらつか》の脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房《にょうぼう》をわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭《しらがあたま》の女房が横|坐《ずわ》りに坐って鼻の頭に汗を掻《か》きながら晩酌《ばんしゃく》の相手もすさまじく、稼《かせ》ぎに身がはいらず質八《しちばち》置いて、もったいなくも母親には、黒米の碓《からうす》をふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りの酸《す》くなった煮豆は一家の
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