を出た。
家を出ると、急にむずかしき顔して衣紋《えもん》をつくろい、そり身になってそろりそろりと歩いて、物持の大旦那《おおだんな》がしもじもの景気、世のうつりかわりなど見て廻《まわ》っているみたいな余裕ありげな様子である。けれども内心は、天神様や観音様、南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、不動明王|摩利支天《まりしてん》、べんてん大黒、仁王《におう》まで滅茶《めちゃ》苦茶にありとあらゆる神仏のお名を称《とな》えて、あわれきょう一日の大難のがれさせ給《たま》え、たすけ給えと念じて眼《め》のさき真暗、全身|鳥肌《とりはだ》立って背筋から油汗がわいて出て、世界に身を置くべき場所も無く、かかる地獄の思いの借財者の行きつくところは一つ。花街である。けれどもこの男、あちこちの茶屋に借りがある。借りのある茶屋の前は、からだをななめにして蟹《かに》のように歩いて通り抜け、まだいちども行った事の無い薄汚い茶屋の台所口からぬっとはいり、
「婆はいるか。」と大きく出た。もともとこの男の人品骨柄《じんぴんこつがら》は、いやしくない。立派な顔をしている男ほど、借金を多くつくっているものである。悠然《ゆうぜん》と台所にあがり込み、「ほう、ここはまだ、みそかの支払いもすまないと見えて、あるわ、あるわ、書附《かきつ》けが。ここに取りちらかしてある書附け、全部で、三、四十両くらいのものか。世はさまざま、|〆《しめ》て三、四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もあり、また、わしの家のように、呉服屋の支払いだけでも百両、お金は惜しいと思わぬが、奥方のあんな衣裳《いしょう》道楽は、大勢の使用人たちの手前、しめしのつかぬ事もあり、こんどは少しひかえてもらわなくては困るです。こらしめのため、里へかえそうかなどと考えているうちに、あいにくと懐姙《かいにん》で、しかも、きょうこの大晦日のいそがしい中に、産気づいて、早朝から家中が上を下への大混雑。生れぬさきから乳母を連れて来るやら、取揚婆《とりあげばば》を三人も四人も集めて、ばかばかしい。だいたい、大長者から嫁をもらったのが、わしの不覚。奥方の里から、けさは大勢見舞いに駈《か》けつけ、それ山伏、それ祈祷《きとう》、取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのに、それでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせ、これは何やら早め薬とかいって鍋《な
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