金は、わしたちのもの、家へ帰ってから戸棚《とだな》の引出しをあけて見ろ、と不思議な事を言った。言った者には、覚えのある筈《はず》。いや、それがしは神通力も何も持っていない。あの赤い太鼓は重かったであろう。あの中に小坊主《こぼうず》ひとりいれて置いた。委細はその小坊主から聞いて知った。言った者を、いまここで名指しをするのは容易だが、この者とて、はじめは真の情愛を以《もっ》てこのたびの美挙に参加したのに違いなく、酒の酔いに心が乱れ、ふっと手をのばしただけの事と思われる。命はたすける。おかみの慈悲に感じ、今夜、人目を避けて徳兵衛の家の前にかの百両の金子を捨てよ。然《しか》る後は、当人の心次第、恥を知る者ならば都から去れ。おかみに於《お》いては、とやかくの指図無し。一同、立て。以上。」
[#地から2字上げ](本朝桜陰比事、巻一の四、太鼓の中は知らぬが因果)
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粋人
「ものには堪忍《かんにん》という事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。世の中は、陰陽、陰陽、陰陽と続いて行くんだ。仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった。その時にはお前も、芝居の変り目ごとに駕籠《かご》で出掛けるさ。それくらいの贅沢《ぜいたく》は、ゆるしてあげます。かまわないから出掛けなさい。」などと、朝飯を軽くすましてすぐ立ち上り、つまらぬ事をもっともらしい顔して言いながら、そそくさと羽織をひっかけ、脇差《わきざし》さし込み、きょうは、いよいよ大晦日《おおみそか》、借金だらけのわが家から一刻も早くのがれ出るふんべつ。家に一銭でも大事の日なのに、手箱の底を掻《か》いて一歩金《いちぶきん》二つ三つ、小粒銀三十ばかり財布に入れて懐中にねじ込み、「お金は少し残して置いた。この中から、お前の正月のお小遣いをのけて、あとは借金取りに少しずつばらまいてやって、無くなったら寝ちまえ。借金取りの顔が見えないように、あちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。ものには堪忍という事がある。きょう一日の我慢だ。あちら向きに寝て、死んだ振りでもしているさ。世の中は、陰陽、陰陽。」と言い捨てて、小走りに走って家
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