お惣菜《そうざい》、それも母御の婆《ばあ》さまが食べすぎると言って夫婦でじろりと睨《にら》むやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆《おおあほう》め。お金は、それでもいくらか持っているようだし、現金払いなら、こちらは客商売、まあ、ごゆるりと遊んでいらっしゃい。とにかく、この一歩金、いただいて置きましょう、贋金《にせがね》でもないようだ。
「やれうれしや、」と婆はこぼれるばかりの愛嬌《あいきょう》を示して、一歩金を押しいただき、「鯛など買わずに、この金は亭主《ていしゅ》に隠して置いて、あたしの帯でも買いましょう。おほほほ。ことしの年の暮は、貧乏神と覚悟していたのに、このような大黒様が舞い込んで、これで来年中の仕合せもきまりました。お礼を申し上げますよ、旦那。さあ、まあ、どうぞ。いやですよ、こんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。洒落《しゃれ》すぎますよ。あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。なんぼ何でも、お人柄にかかわりますよ。どうも、長者のお旦那に限って、台所口がお好きで、困ってしまいます。貧乏所帯の台所が、よっぽどもの珍らしいと見える。さ、粋《すい》にも程度がございます。どうぞ、奥へ。」世におそろしきものは、茶屋の婆のお世辞である。
 お旦那は、わざとはにかんで頭を掻き、いやもう婆にはかなわぬ、と言ってなよなよと座敷に上り、
「何しろたべものには、わがままな男ですから、そこは油断なく、たのむ。」と、どうにもきざな事を言った。婆は内心いよいよ呆《あき》れて、たべものの味がわかる顔かよ。借金で首がまわらず青息吐息で、火を吹く力もないような情ない顔つきをしている癖に、たべものにわがままは大笑いだ。かゆの半杯も喉《のど》には通るまい。料理などは、むだな事だ、と有合せの卵二つを銅壺《どうこ》に投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、うで卵にして塩を添え、酒と一緒に差出せば、男は、へんな顔をして、
「これは、卵ですか。」
「へえ、お口に合いますか、どうですか。」と婆は平然たるものである。
 男は流石《さすが》に手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
「この辺は卵の産地か。何か由緒《ゆいしょ》があらば、聞きたい。」
 婆は噴き出したいのを怺《こら》えて、
「いいえ
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