なんに、それがしには勝太郎ひとり。国元の母のなげきもいかばかり、われも寄る年波、勝太郎を死なせていまは何か願いの楽しみ無し、出家、と観念して、表面は何気なく若殿に仕えて、首尾よく蝦夷見物の大役を果し、その後、城主にお暇《いとま》を乞《こ》い、老妻と共に出家して播州《ばんしゅう》の清水の山深くかくれたのを、丹後その経緯を聞き伝えて志に感じ、これもにわかにお暇を乞い請《う》け、妻子とも四人いまさらこの世に生きて居られず、みな出家して勝太郎の菩提《ぼだい》をとむらったとは、いつの世も武家の義理ほど、あわれにして美しきは無しと。
[#地から2字上げ](武家義理物語、巻一の五、死なば同じ浪枕《なみまくら》とや)
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   女賊

 後柏原《ごかしわばら》天皇|大永《たいえい》年間、陸奥《みちのく》一円にかくれなき瀬越の何がしという大賊、仙台|名取川《なとりがわ》の上流、笹谷峠《ささやとうげ》の附近に住み、往来の旅人をあやめて金銀荷物|押領《おうりょう》し、その上、山賊にはめずらしく吝嗇《りんしょく》の男で、むだ使いは一切つつしみ、三十歳を少し出たばかりの若さながら、しこたまためて底知れぬ大長者になり、立派な口髭《くちひげ》を生《は》やして挙措《きょそ》動作も重々しく、山賊には附《つ》き物《もの》の熊《くま》の毛皮などは着ないで、紬《つむぎ》の着物に紋附《もんつ》きのお羽織をひっかけ、謡曲なども少したしなみ、そのせいか言葉つきも東北の方言と違っていて、何々にて候《そうろう》、などといかめしく言い、女ぎらいか未《いま》だに独身、酒は飲むが、女はてんで眼中に無い様子で、かつて一度も好色の素振りを見せた事は無く、たまに手下の者が里から女をさらって来たりすると眉《まゆ》をひそめ、いやしき女にたわむれるは男子の恥辱に候、と言い、ただちに女を里に返させ、手下の者たちが、親分の女ぎらいは玉に疵《きず》だ、と無遠慮に批評するのを聞いてにやりと笑い、仙台には美人が少く候、と呟《つぶや》いて何やら溜息《ためいき》をつき、山賊に似合わぬ高邁《こうまい》の趣味を持っている男のようにも見えた。この男、或《あ》る年の春、容貌《ようぼう》見にくからぬ手下五人に命じて熊の毛皮をぬがせ頬被《ほおかぶ》りを禁じて紋服を着せ仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》をはかせ、これを引連れて都にのぼり、自分は
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