立て、瀬踏みをさせますから、あなたは何でもただ馬の首にしがみついて勝太郎の後について行くといい。すぐあとに、わしがついて守って行きますから、心配せず、大浪をかぶってもあわてず、馬の首から手を離したりせぬように。」とおだやかに言われて流石の馬鹿も人間らしい心にかえったか、
「すみません。」と言って、わっと手放しで泣き出した。
 諸事頼むとの一言、ここの事なりと我が子の勝太郎を先に立て、次に丹三郎を特に吟味して選び置きし馬に乗せて渡らせ、わが身はすぐ後にひたと寄添ってすすみ渦巻《うずま》く激流を乗り切って、難儀の末にようやく岸ちかくなり少しく安堵《あんど》せし折も折、丹三郎いささかの横浪をかぶって馬の鞍《くら》覆《くつが》えり、あなやの小さい声を残してはるか流れて浮き沈み、騒ぐ間もなくはや行方しれずになってしまった。
 式部、呆然《ぼうぜん》たるうちに岸に着き、見れば若殿は安泰、また我が子の勝太郎も仔細《しさい》なく岸に上って若殿のお傍に侍《はべ》っている。
 世に武家の義理ほどかなしきは無し。式部、覚悟を極《き》めて勝太郎を手招き、
「そちに頼みがある。」
「はい。」と答えて澄んだ眼で父の顔を仰ぎ見ている。家中随一の美童である。
「流れに飛び込んで死んでおくれ。丹三郎はわしの苦労の甲斐《かい》も無く、横浪をかぶって鞍がくつがえり流れに呑《の》まれて死にました。そもそもあの丹三郎儀は、かの親の丹後どのより預り来《きた》れる義理のある子です。丹三郎ひとりが溺《おぼ》れ死んで、お前が助かったとあれば、丹後どのの手前、この式部の武士の一分《いちぶん》が立ちがたい。ここを聞きわけておくれ。時刻をうつさずいますぐ川に飛び込み死んでおくれ。」と面《おもて》を剛《こわ》くして言い切れば、勝太郎さすがは武士の子、あ、と答えて少しもためらうところなく、立つ川浪に身を躍らせて相果てた。
 式部うつむき涙を流し、まことに武家の義理ほどかなしき物はなし、ふるさとを出《い》でし時、人も多きに我を択《えら》びて頼むとの一言、そのままに捨てがたく、万事に劣れる子ながらも大事に目をかけここまで来て不慮の災難、丹後どのに顔向けなりがたく、何の罪とがも無き勝太郎をむざむざ目前に於《お》いて死なせたる苦しさ、さりとては、うらめしの世、丹後どのには他の男の子ふたりあれば、歎《なげ》きのうちにもまぎれる事もあり
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