ばしば有りとの事、いわんや他国のわれら、抜山《ばつざん》の勇ありといえども、血気だけでは、この川渡ることむずかしく、式部はきょう一日、その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますから、どうか式部の奇病をあわれに思召《おぼしめ》して、川を越える事はあすになさって下さい。」と涙を流して懇願した。
まことの臆病者の丹三郎は、口ではあんな偉そうな事を言ったものの、蛸め、つづけ! と若殿に言われた時には、くらくらと眩暈《めまい》がして、こりゃもうどうしようと、うろうろしたが、式部が若殿をいさめてくれたので、ほっとして、真青な顔に奇妙な笑いを無理に浮べ、「ちえ、残念。」と言った。
それがいけなかった。その出鱈目《でたらめ》の言葉が若殿の気持をいっそう猛《たけ》り立たせた。
「蛸め。式部は卑怯《ひきょう》だ。かまわぬ、つづけ!」と式部の手のゆるんだすきを見て駒に一鞭《ひとむち》あて、暴虎馮河《ぼうこひょうが》、ざんぶと濁流に身をおどらせた。式部もいまはこれまでと観念し、
「それ! 若殿につづけ。」とお供の者たちに烈《はげ》しく下知した。いずれも屈強の供の武士三十人、なんの躊躇《ちゅうちょ》も無くつぎつぎと駒を濁流に乗り入れ、大浪《おおなみ》をわけて若殿のあとを追った。
岸には、丹三郎と跡見役の式部親子とが残った。丹三郎は、ぶるぶる震えながら勝太郎の手を固く握り、
「若殿は野暮だ。思いやりも何も無い。おれは実は馬は何よりも苦手なのだ。何もかも目茶苦茶だ。」と泣くような声で訴えた。
式部は静かにあたりを見廻し、跡に遺漏のものの無きを見とどけ、さて、丹三郎に向い、
「これも皆、あなたの言葉から起った難儀です。でもまあいまは、そんな事を言っていたって仕様がありません。すぐに若殿の後を追いましょう。わしたちは果して生きて向う岸に行き着けるかどうか、この大水では、心もとない。けれども、わしは国元を出る時、あなたの親御の丹後どのから、丹三郎儀はまだほんの子供、しかも初旅の事ゆえ、諸事よろしくたのむと言われました。その一言が忘れかね、わしはきょうまで我慢に我慢を重ねて、あなたの世話を見て来ました。いまこの濁流を渡って、あなたの身にもしもの事があったなら、きょうまでのわしの苦労もそれこそ水の泡《あわ》になります。馬は一ばん元気のいいのを、あなたのために取って置きました。せがれの勝太郎を先に
前へ
次へ
全105ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング