とわかっているんだ。実の親子の情は、さすがに争われないものだ。焼酎でも吹いて置け、か。あとでその残りの焼酎を、親子二人で仲良く飲み合ったろう、どうだ。おれには一滴も酒を飲ませないばかりか、狐拳さえやめさせようとしやがるんだから面白くないよ。ゆうべは、つくづく考えた。ごめんこうむっておれはもう少し寝るよ。」
襖越《ふすまご》しに神崎式部はこれを聞いていた。よっぽどこのまま捨て置いて発足しようかと思った。本当に、うっちゃって行ったほうがよかったのだ。そうすれば、のちのさまざまの不幸が起らずにすんだのかも知れない。けれども、式部は義理を重んずる武士であった。諸事よろしくたのむ、とぴたりと畳に両手をついて頼んだ丹後の声が、姿が、忘れられぬ。式部はその日も黙って、丹三郎の起床を待った。
丹三郎の不仕鱈《ふしだら》には限りが無かった。草津、水口《みなくち》、土山《つちやま》を過ぎ、鈴鹿峠《すずかとうげ》にさしかかった時には、もう歩けぬとわめき出した。もとから乗馬は不得手で、さりとてその自分の不得手を人に看破されるのも口惜《くや》しく無理して馬に乗ってはみたが、どうにもお尻《しり》が痛くてたまらなくなって、やっぱり旅は徒歩に限る、どうせ気散じの遊山旅だ、馬上の旅は固苦しい、野暮である、と言って自分だけでは体裁が悪いので勝太郎にも徒歩をすすめて馬を捨てさせ、共に若殿の駕籠《かご》の左右に附添ってここまで歩いて来たのだが、峠にさしかかって急に、こんどは徒歩も野暮だと言いはじめた。
「こうして、てくてく歩いているのも気のきかない話じゃないか。」蛸は駕籠に乗って峠を越したかったのである。
「やっぱり、馬のほうがいいでしょうか。」勝太郎には、どっちだってかまわない。
「なに、馬?」馬は閉口だ。とんでもない。「馬も悪くはないが、しかし、まあ一長一短というところだろうな。」あいまいに誤魔化《ごまか》した。
「本当に、」と勝太郎は素直に首肯《うなず》いて、「人間も鳥のように空を飛ぶ事が出来たらいいと思う事がありますね。」
「馬鹿な事を言っている。」丹三郎はせせら笑い、「空を飛ぶ必要はないが、」駕籠に乗りたいのだ。けれどもそれをあからさまに言う事は流石に少しはばかられた。「空を飛ぶ必要はないが、」とまた繰返して言い、「眠りながら歩く、という事は出来ないものかね。」と遠廻《とおまわ》しに謎《なぞ
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