」と言い、蛸ひとりを宿に置いてさっさと発足しようとなさるが、神崎式部は丹三郎の親の丹後から、あの子をよろしくと、一言たのまれているのだ。捨て置いて発足するわけには行かぬ。わが子の勝太郎に言いつけて、丹三郎を起させる。勝太郎は丹三郎よりも一つ年下である。それゆえすこし遠慮の言葉使いで丹三郎を起す。
「もし、もし。御出発でございます。」
「へえ? ばかに早いな。」
「若殿も、とうにお仕度がお出来になりました。」
「若殿は、あれから、ぐっすりお休みになられたらしいからな。おれは、あれから、いろいろな事を考えて、なかなか眠られなかった。それに、お前の親爺《おやじ》のいびきがうるさくてな。」
「おそれいります。」
「忠義もつらいよ。おれだって、毎夜、若殿の遊び相手をやらされて、へとへとなんだよ。」
「お察し申して居《お》ります。」
「うん、まったくやり切れないんだ。たまには、お前が代ってくれてもよさそうなものだ。」
「は、お相手を申したく心掛けて居りますが、私は狐拳など出来ませんので。」
「お前たちは野暮だからな。固いばかりが忠義じゃない。狐拳くらい覚えて置けよ。」
「はあ、」と気弱く笑って、「それにしても、もう皆様が御出発でございますから。」
「何が、それにしても、だ。お前たちは、おれを馬鹿にしているんだ。ゆうべも、その事を考えて、くやしくて眠れなかったんだ。おれも親爺と一緒に来ればよかった。親から離れて旅に出ると、どんなに皆に気がねをしなけりゃならぬものか、お前にはわかるまい。おれは国元を出発してこのかた、肩身のせまい思いばかりしている。人間って薄情なものだ。親の眼のとどかないところでは、どんなにでもその子を邪険に扱うんだからな。いや、お前たちの事を言っているんじゃない。お前たち親子は立派なものさ。立派すぎて、おつりが来らあ。このたびの蝦夷見物がすんだなら、おれはお前たち親子の事を逐一、国元の殿様と親爺にお知らせするつもりだ。おれには、なんでもわかっているんだ。お前の親爺は、ずいぶんお前を可愛《かわい》がっているらしいじゃないか。隠さなくたっていい。ゆうべこの宿に着いた時、お前の親爺は、これ勝太郎、足の豆には焼酎《しょうちゅう》でも吹いて置け、と言ったのをおれは聞いたぞ。おれには、あんな事は言わない。皆の見ている前では、いやにおれに親切にしてみせるが、へン、おれにはちゃん
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