、それできょうまで僕はこの学校に愚図愚図していたと言ってもよいのです。しかし、」と顔を上げて、「もう、しかし、やむにやまれないのです。あの同胞の表情を見た以上は、もう左顧《さこ》も右眄《うべん》もして居られません。日本の忠義の一元論も、こんなものではないかしら。そうだ。僕は、やっとあの哲学が体得できました。帰国して、僕はまずあの民衆の精神の改革のため、文芸運動を起します。僕の生涯は、そのために捧《ささ》げてしまうのです。とにかく一旦《いったん》、帰国し、故郷の弟とも相談して一緒に文芸雑誌を出して、そう、その雑誌の名前も、きょう、いま、はっきりきまりました。」
「どんな名前ですか?」
「新生。」
と一言、答えて微笑した。その笑いには、周さん自ら称していたあの「奴隷の微笑」の如き卑屈の影は、みじんも見受けられなかった。
老医師の手記は、以上で終っているが、自分(太宰)は、さらに次の数行を附加して、この手記の読者の参考に供したい。
全世界に誇るべき東洋の文豪、魯迅先生の逝去《せいきょ》せられたのは、昭和十一年の秋であるが、それに先立つこと約十年、先生四十六歳の昭和元年に、「藤野先生
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