ふっと、数日前の小さい出来事を思い出した。藤野先生の時間だ。先生が教室へはいっていらっしゃると同時に、クラス会の新幹事の矢島が、つと立って行って黒板に、明日クラス会開催の事を記し、そうして、全部漏れなく出席せられたし、と書き添え、それから「漏」という字に二重丸を附けた。五、六人の生徒は、どっと笑った。私は、いつもクラス会には人が集らないから、特に「漏れなく」という事を強調したのだろう、くらいに軽く考えていた。しかし、それは矢島の陋劣《ろうれつ》なあてこすりだったのだ。そこには藤野先生も周さんもいるから、試験問題の「漏洩《ろうえい》」を暗に皮肉るつもりで、矢島が卑屈の小細工をしたのだ。それに気がついたら、むっとして来て、
「殴《なぐ》ってしまいましょう。」ただ、きたならしいものとして黙殺するくらいでは、すまないと思った。私は自分の平凡な六十年の生涯に於いて、ひとを本気に殴ろうと思ったのは、この時いちどだけと言ってよい。今夜これから彼の家へ行って、存分に打ち据《す》えて来ようと思った。私はこの矢島という立派な口髭《くちひげ》をはやした生徒を、前から大きらいだったのである。彼は仙台の東北学院
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