で全部、朱筆が加えられ、たくさんの書落しの箇所が綺麗《きれい》に埋められているばかりか、文法の誤りまで、いちいちこまかく訂正せられているではないか。
「それから、もう、毎週、それが続いているのです。」
周さんと私とは、しばらく顔を見合せて黙っていた。勉強しよう。藤野先生の講義には、どんな事があっても出席しよう。このように誰にも知られず人生の片隅においてひそかに不言実行せられている小善こそ、この世のまことの宝玉ではなかろうかと思った。このささやかな小事件が、単なる傍観者でしかない私をさえ感奮させ、いままでの怠惰《たいだ》な烏《からす》も、それからはせっせと学校へ通うようになったし、おかげで無事に医師の免状をもらうことも出来て、まあどうやら、ただいまこうして父祖の業を継いでいられるようになったと言ってよいのである。
ノオトの訂正は、それから後も決して絶える事なく藤野先生みずからの手で黙々と励行せられていたようであったが、私たちが二学年になった秋に、このノオトのため、あまり愉快でない事件が起った。しかし、それは後の話で、とにかく、この明治三十七年の冬から翌年の春にかけて、私にとっては、い
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