言わないようにしてくれませんか。」
「なぜさ。」津田氏は、口をへの字に曲げて私を睨《にら》んだ。
「なぜでも。」と私は努力して微笑し、「とにかく、その同志糾合は、二、三日待ってくれませんか。でないと、僕はあなたの敵になりますよ。」
 いまはただ、周さんが可哀想であった。また、周さんの勉強にあれほど力こぶをいれていた藤野先生にも、お気の毒であった。私の関心は、もはや、それだけであって、あとは、どうでもよくなったのである。
「そうかねえ。」と、津田氏はいまいましそうにそっぽを向いて、「君は、どうも、僕を信頼していないようだねえ。」
 私はそれにかまわず、
「あなたが約束してくれなければ、僕はあなたの敵になって、藤野先生にも、うんとあなたの悪口を言います。」
「それは、しかし、乱暴じゃないか。」
「乱暴でもいいんです。敵になるんだから。どうですか、約束してくれますね?」と私は図に乗って強く念を押した。
 津田氏はしぶしぶ首肯《うなず》いて、
「東北人は、おれあ、苦手だ。」と小声で言った。
 翌《あく》る日、私は藤野先生の研究室に行き、事情をかいつまんで報告して、
「津田さんも、非常に憤慨して、先生のお指図を待ち何かお役に立ちたいと言っています。」と津田氏の心懐を美しく語り伝え、もちろん矢島の名前などもいっさい出さず、ただ、こんな誤解を周さんのために消滅して下さるようにとお願いした。
「消滅させるも何も、」と先生は案外にのんきな笑顔で、「周君の解剖学は落第点や。他の学科の点数がよかったから、まあ、あれだけの成績を収めたのです。周君は、あれは、何番だったかしら。」
「さあ、六十番くらいだったでしょうか。」私たちが一学年から二学年に進む時には、ばかに落第生が多かった。同級生の三分の一、約五十人が落第の憂目に遭《あ》い、私も津田氏も共に八、九十番という危いところでやっと及第したのであって、異国の周さんが六十番というのは、秀才でしかも勉強家の周さんにとっては当然の成績のように私たちには思われるのだが、しかし、周さんをよく知らない者には、その六十番は、何だか怪しいもののように感ぜられたかも知れない。殊にも落第生たちは、おのれの不勉強を棚に上げ、進級生たちに何かと難癖《なんくせ》をつけて見たいだろうし、その進級生全部の犠牲になって槍玉《やりだま》にあげられたのは清国留学生の周さんだ、と
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