「馬なんか、どうだつていい。逃げちやつたんでせう。」
「それは、惜しい。」
「何を、おつしやる。あんな痩馬。」
「痩馬とは、ひどい。あれは、利巧な馬です。すぐ様さがしに行つて来ませう。こんな菊畑なんか、どうでもいい。」
「なんですつて?」才之助は、蒼くなつて叫んだ。「君は、私の菊畑を侮蔑するのですか?」
姉が、納屋から、幽かに笑ひながら出て来た。
「三郎や、あやまりなさい。あんな痩馬は、惜しくありません。私が、逃がしてやつたのです。それよりもこの荒された菊畑を、すぐに手入れしておあげなさいよ。御恩報じの、いい機会ぢやないの。」
「なあんだ。」三郎は、深い溜息をついて、小声で呟いた。「そんなつもりだつたのかい。」
弟は、渋々、菊畑の手入れに取りかかつた。見てゐると、葉を喰ひちぎられ、打ち倒され、もはや枯死しかけてゐる菊も、三郎の手に依つて植ゑ直されると、颯つと生気を恢復し、茎はたつぷりと水分を含み、花の蕾は重く柔かに、しをれた葉さへ徐々にその静脈に波打たせて伸腰する。才之助は、ひそかに舌を捲いた。けれども、かれとても菊作りの志士である。プライドがあるのだ。どてらの襟を掻き合せ、努め
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